勘十郎堀跡

周囲の農民の手によって工事は行われたが工事は困難を極め、過酷な労働により農民が何人も亡くなったという。そして、この辺りでは過酷な労働で亡くなった農民の霊が出ると言われている。

勘十郎堀の基本情報

江戸中期の1707年(宝永4年)、那珂川につながる涸沼(ひぬま)と、北浦に注ぐ巴川をつなげようと水戸藩が着手した。

江戸・東北間の物資輸送の重要な場所に運河をつくり、その通船税で藩の財政を、立て直そうとして紅葉運河は涸沼西岸の海老沢から北浦にそそぐ巴川流域の紅葉(旧鉾田町)に至る約10キロメートル。

大貫運河は大貫(大洗町)から涸沼川までの約1キロメートルで、大地を人力で掘り下げる紅葉運河の大工事に農民たちを苦しめました。

日雇い銭も支払われず、やがて一揆に発展し、改革は1709(宝永6年)1月未完成のまま中止となった。当初の予定では、涸沼(ひぬま)から巴川(ともえがわ)まで約10kmの運河になる予定だった。

茨城県東茨城郡茨城町城之内

地域 : 関東地方 | 茨城県

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著者: 管理人

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