河津三郎祐泰(かわづさぶろうすけ)を供養する為に作られた塚で、ぼんやりと丸い光が浮かんでいるのを見た人が居るそうだ。
また、ここで写真を撮ると心霊写真が撮れるという噂も有る。
河津三郎泰字の血塚
1176年(安元二年)10月、配流の身の源頼朝を慰めるためにと、恩義ある伊豆・駿河・相模の武士たちが奥野で巻狩りをもよおした。その帰りみち河津三郎祐泰が、所領問題で恨みをいだく工藤祐経の指し図によって近くの椎の木三本で待ちうけていた大見小藤太・八幡三郎に射ころされる。
祐泰は、伊東祐親の長男であり、曽我十郎・五郎の父にあたる。そのとき共にねらわれた祐親は、あやうく難をのがれた。世に知られる曽我兄弟仇討ちの発端になったできごと。
後に、供養のため積石塚と宝篋印塔一基をつくり、血塚としてつたえてきた。なお、宝篋印塔は、形状からみて南北朝ごろのものと推測されている。
静岡県伊東市八幡野1741−253