1999年(平成11年)に閉鎖された廃道にあるトンネルで、地元では女性の霊が現れると囁かれているようだ。
トンネル内では風が強く吹き違和感を感じたり、誰も居ないはずなのに人の気配を感じたりするのだという。
トンネルに行く途中の「第二風吹隧道」もかなり不気味な雰囲気になっている。
風吹トンネルの由来
この地区は、明治の初期までは、わずかな田畑を耕作し、炭を焼いたり、まき木を売ったりして生活していた貧しい地区でした。
明治も十年過ぎるとお茶の栽培が始まり、多少生活は良くなってきたが、苦労して生産した農作物を、市場に持って行くには、三方を囲まれた急峻の山を超えなければならなく、また、掛川方面の交通には人馬がようやく通れるくらいの道しかなく住民は大変難儀をしていた。
そこでこの地区に生まれ育った青野卯吉は、この状況から開放されるには隧道を掘る以外には活路がないと考えて「わし一人でもやらなければ!」と私財を出して測量し、工事費を見積もったところ、当時のお金で二千円)当時米一俵三円・村の年間予算額五千円程度)を超えることが判り、途方に暮れてしまった。
この窮状を内田(現菊川町)の製茶会社共益社浅羽氏に相談したところ、見付(現磐田市)にある遠江国報徳社の岡田良一郎社長にお願いしたらとの助言をいただき、お願いしたところ、「地区に報徳社を創ることを条件」で同意を得て、区民の理解のもと、 明治三十二年一月に報徳社を設立し、千円のお金を借りることができた。
工事は明治三十三年から二年間かかり、大小三つの風吹隧道が区民一同の苦労のもと総工費二千五百円を費やして完成した。隧道の大きさは高さニメートル、幅二メートルで人が車を引いてやっと通れる程度の素掘りのものであった。
隧道はその後、昭和六年と昭和二十二年に改修し、今日に至っている。明治時代から百年という永い年月に亘り、役割を担ってきた隧道も、 平成十一年の新道開通により、その使命を果たすこととなった。
この間、多くの人が思恵を受けたことに感謝すると共に、 大事業の功績を残された郷土の偉人である卯吉翁を始め先人の偉業を讃え、ここに記念碑を建立する。
風吹トンネルの由来より
静岡県掛川市上内田2934−33