橋の下を通る川の上に女の人が立っていた。女性のすすり泣く声が聞こえてくる。刑場跡地の一番大きな木には無数の霊が取りついている。
などと噂があり、この付近での電車の飛び込み自殺も有り、何かに引き寄せられているのでは、と言われている。
この橋の先の処刑場に向かう罪人と家族がこの橋のたもとで涙と共に最後の別れを告げたことから、「涙橋」と名付けられた。
1877年(明治10年)に政府軍と薩摩軍213名が戦った西南戦争があり、多くの戦死者を出した事でも知られている。この涙橋のたもとには「涙橋決戦の碑」が建てられている。
涙橋から南へ約800m下がった所で紫原から流れる小川の奥に有ったとされる処刑場では、罪人が「笞打ち,切腹,斬首,磔刑,晒し首」などで処刑されており、昭和初期の頃の現場は切立ったシラスの崖で薄暗い不気味な所だったのだという。
現在では紫原に通ずる坂道が出来て崖際は住宅地になっており、坂の出口は踏み切りになっている。
処刑が終った後は,「冷物取(ひえものとり)」と言う、囚人の死体を剖き肝臓や、胆嚢を取り出させることで肝試しとして使われた。人斬り半次郎(桐野利秋)はよく来ていたそうだ。
鹿児島県鹿児島市南郡元町2−1
実際の処刑場があった場所は、この涙橋から数百メートル先の彦四郎川の上流にあった地獄谷です。
ありがとうございます。
改めて調べて修正致します。
人切り半次郎の話はあとで誰かがくっつけた作り話だと思う。
あの付近に6~70年前に住んでいたが昔はそんな話は聞いたことがなかった。
間違って処刑されたお医者様の供養塔が、南鹿児島駅の線路を渡る歩道橋と似た橋の
紫原側にあります。間違いの処刑と分かり中止の使いを走らせたけど間に合わなかった
ことが書いてあります。
私もつい最近、元文2年に第22代藩主島津継豊公の時に、彼の侍医の1人が無実の罪に問われて斬首された旨が書かれた「元文の板碑」というものが涙橋の近くにあるということを知りました。それにしても無実の罪で斬首されたなんてその無念さは・・・・・。
涙橋の横の線路沿い中郡側100m位のところに処刑人の住居あとがあり
その付近には処刑待ちの犯罪者の牢獄もあったと図書館の古い記録に
書いてあった。
涙橋から南鹿児島駅の山側、彦四郎川の奥あたりまで沢山の防空壕があります。
南鹿児島駅の駅裏の防空壕の三本はとても長く奥まで行くと急な登坂があり
紫原までつながっています。彦四郎川上流部には特殊な形の防空壕があり
戦車か何か入れるのだろうかと思いました。子供のころはあのダムの奥には
動かなくなった戦車が埋まっていると聞かされていました。
彦四郎川上流の現在「地獄谷」と呼ばれている所にあった処刑場はかつて「境迫門」(さかいせと)と呼ばれていたようです。