1333年鎌倉時代の後期の5/15と5/16日にわたり北条泰家率いる鎌倉幕府軍と新田義貞率いる反藩幕府勢が戦う「分倍河原の戦い」という合戦があった。
この合戦のより戦死した3000人の遺骨がこの塚に収められていると伝承されていた。近隣のアパートでは金縛りに遭ったり、落ち武者の霊が出るという噂があるようだ。
しかし、この「三千人塚」学術調査を行ったところ合戦の戦死者が埋葬されたわけではなく、倉時代から室町時代の有力者一族の塚であったことが判明した。
三千人塚
三千人塚は、江戸時代の地誌 「武蔵名勝図会」などにも紹介されている由緒ある家です。塚の上には、多摩地区最古となる康元元年(1256年)の板碑が建ててあり、「板碑の立つ塚」として、昔から注目されてきました。
昭和30年に地元の郷土史家により、この家の西側が発掘調査され、鎌倉時代から南北朝時代の蔵骨器 (4個)が出土しています。
平成17年に学術調査を行ったところ、塚の東側から、石にお経の文字を写した「礫石経」が多量に出土しました。
この調査により、現存の塚の高まりは、元弘三年(1333年)の分倍河原の合戦で亡くなった三千人の死者を埋葬したという伝承とは関係がなく、江戸時代に造られたものであることがわかりました。
三千人塚は、鎌倉時代から室町時代の在地の有力者一による小さな塚(墓)の点在した場所が、江戸時代には信仰の対象となり、地元の文化財として今日まで大切にされてきたといえます。
平成18年3月1日
東京都府中市矢崎町2丁目21−1