旅人を泊めては殺害し、その肉を食べ生き血を吸ったという鬼婆の伝説があり「安達ヶ原の鬼婆」として伝えられている。
黒塚はこの鬼婆の墓とされ、こ付近ではうなり声のような声が聞こえて来る事があるという。鬼婆が住んでいた家や、血の付いた包丁を洗ったとされる池などが残されている。
安達ヶ原の鬼婆
昔、京都の公卿屋敷に「岩手」という名の乳母が奉公に来ていました。「岩手」は姫をとても可愛がっていましたが、重い病気に掛かり5歳になっても口がきけないほどだった。
なんとか姫を救ってあげたいと易者にきいてみると「妊婦の胎内の胎児の生き胆をのませれば治る」ということでした。そこで「岩手」は生まれたばかりの娘を置き、生き肝を求めて旅に出て安達ケ原の岩屋まで足をのばしました。
「岩手」は岩屋を宿にして、妊婦から胎内の胎児の生き胆を得るために待ち伏せていました。長い年月が過ぎた木枯らしの吹く晩秋の夕暮れ時に「生駒之助」と「恋衣(こいぎぬ)」と名のる旅の若夫婦が宿を求めてきました。
その夜ふけ、「恋衣」が急に産気づき、生駒之助は産婆を探しに外に走りました。この時、とばかりに岩手は出刃包丁をふるい、苦しむ「恋衣」の腹を割き胎内の胎児の生き胆を抜き取りました。「恋衣」は最後に「幼い時京都で別れた母を探して旅をしてきたのに、とうとう会えなかった・・・」と語り息をひきとりました。
ふと見ると、「恋衣」はお守り袋を携えていて、それを見て「岩手」は驚愕しました。その御守りは京都を出る時に娘に残した御守りだったのです。我が子を殺してしまった「岩手」は気が狂い鬼と化しました。
その後、神亀丙寅の年(726年)頃。紀州の僧・東光坊祐慶(とうこうぼう ゆうけい)が安達ヶ原を旅している途中に日が暮れ、岩屋に宿を求めました。岩屋には一人の老婆が住んでいてこころよく招き入れてくれました。
老婆は薪が足りなくなくなるから取りに行くと言い「奥の部屋を絶対に見てはいけない」と「祐慶」に言いつけて岩屋から出て行きました。
祐慶は好奇心が強く、見てはいけないと言われていたものの、戸を開けて奥の部屋を覗いてしまった。そこには人間の白骨死体が山のように積み上げられていた。
安達ヶ原で旅人を殺して血肉を貪り食うという鬼婆の噂を思い出し、あの老婆こそがそうなのだと確信し、岩屋から慌てて逃げ出しました。
岩屋に戻って来た老婆は「祐慶」が居ない事に気づき、恐ろしい鬼婆の姿となって急いで追いかけた。「祐慶」のすぐ後ろまで迫り、絶体絶命の時に「祐慶」は旅の荷物の中から如意輪観世音菩薩の像を取り出して必死に経を唱えた。
すると菩薩像が空へ舞い上がり、光明を放ちつつ破魔の白真弓に金剛の矢をつがえて射ち、鬼婆を仕留めました。鬼婆は命を失ったものの、観音像の導きにより成仏したという。
祐慶は阿武隈川のほとりに塚を造って鬼婆を葬り、その地は「黒塚」と呼ばれるようになったという。鬼婆を得脱に導いた観音像は「白真弓観音(白檀観音とも)」と呼ばれ、後に厚い信仰を受けた。
福島県二本松市安達ヶ原4丁目