1570年(永禄13年)7月30日の「姉川の戦い」で最も戦死者が出た激戦地で戦で亡くなった侍や武将達の霊が出ると言われている。
合戦場付近の「血原」や「血川」という地名は往時の激戦振りをうかがわせる。
姉川古戦場
お市の方との結婚で結ばれた浅井長政と 織田信長の仲は、越前の朝倉氏の反乱に よって破れた。朝倉氏との盟約を重んじ同氏 についた長政に湖西された信長は 岐阜へ戻るや戦備を整え、元亀元年(一五七〇年六月三万の兵を率いてヶ鼻に障し 山城を包囲した。徳川家康は、この時、 五千騎を率いてこれを援している。
一方、浅井朝倉合わせて一万八千は姉川 北岸に陣し、機は熟していった。
ついに二十八日早朝、両軍激突、衆寡敵 せず浅井朝倉軍は小谷城への敗走と なった。 しかし、その小谷城もこれの三年後には落ちることになる。
両軍の死傷者三千余名、あたりに血原川の地名が残されている。
平成六年十月
浅井町教育委員会
滋賀県長浜市三田町