鳥取城跡

1580年、鳥取城攻略のため2万の兵を率いた羽柴秀吉は、相手の食料の蓄えが少ないという弱点を突き、鳥取の飢え殺しと呼ばれる4ヶ月にも渡る兵糧攻めを行った。

このとき城には20日分の兵糧しか用意されておらず、この作戦により瞬く間に兵糧は尽き飢餓に陥った。何週間か経つと城内の家畜、植物などは食い尽くされ、4か月も経つと餓死者が続出人肉を食らう者まで現れたと伝えられている。

無数の白い手農民や兵士の飢えに苦しむ呻き声、などの噂が多く、山頂周辺が最も危険だと言われている。

小高くそびえる久松山にかつて存在した別名「久松城」「久松山城」と言われてた城跡。

『信長公記』には「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず」と記されている。城主の経家はこの凄惨たる状況に、自決と引き換えに開城した。

現在は公園や博物館が造られ文化的なエリアとなっている。

鳥取県鳥取市東町2丁目104

地域 : 中国地方 | 鳥取県
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