要害神社

ここに在る展望台で夜に黒い人影が現れるという噂が少し有るようだ。

神社の鳥居が少し不気味に思えたり、風が強く吹く事も有り、恐さを感じる人も居るようだ。

心霊スポットで知られている「はねたき橋」の近くに在る。

要害ようがい神社じんじゃの基本情報

高津戸城跡に作られた神社で少し荒れており訪れる人も少ないようだ。

要害神社と高津戸城の由来

高津戸城は、堀河天皇の御代、寛治年中(1087-1094)頃山田七郎平吉之が創立した。その後、十代目の則之は桐生国綱によって滅ぼされた。正平六年(1351)六月のことである。

里見家の七代、義連の三男氏連が仁田山八郷(高津戸、須永、東・西小倉、上・中・下仁田山、名久木をいう)に入ったのは建徳二年(1371)で国綱の娘が氏連の正室となりその縁で仁田山八郷を国綱からまかされた。

仁田山城は以前は山田氏の居城であった。また、氏連より四代後の宗連は越後の上杉謙信に攻められ自刃した。天正二年(1574)九月のことである。

房州の里見実堯(勝広)は仁田山に住む一族の宗連の許に身を寄せていたが宗連の歿後桐生に移って桐生氏の客分となるが、実堯は二子、勝政と勝安を上杉謙信に託した。ところがこれが桐生親綱に誤解され、元亀元年(1570)三月二十日に詰め腹を切らされた。

越後の上杉謙信の元にいた兄弟は親の仇を討ちたいと天正四年十月(1576)に高津戸城に隠れ、その翌年五月二日、用明の砦を襲ったが念願果たせず由良国繁の怒りを受けて天正六年九月十八日無念の涙を流して討死にした。里見随見勝政二十八才、弟の勝安二十五才の若さであった。兄弟の墓や山田氏の墓は要害山のふもと阿弥陀堂に静かに眠っている。

要害神社はその昔金比羅宮と呼ばれ、自音寺第七世の住職高海上人が四国の金比羅宮に参籠していた時、不思議にも夢中で金比羅神王の尊容を拝した。

また、要害山の山姿が象頭山に似ていることからこの地に祠を建立して神王を奉安した。この金比羅宮(現在要害神社)は霊験あらたかで、近郷近在の老若男女の参拝者でにぎわったと文政五年の自音寺の古記録にのこされている。

昭和五十六年四月十九日
要害神社氏子一同

群馬県みどり市大間々町高津戸1089

地域 : 関東地方 | 群馬県
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著者: 管理人

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