1630年(寛永7年)夫に嫉妬をもやして逆上し斬ろうとしたが本宅にいた浅野彦五郎に斬りつけられて、この門で力尽きたという話があり、そのお綱にまつわる祟り話が残されている。
お綱の亭主の浅野四郎左衛門は、お綱が死んだ翌日から原因不明の熱病にかかる。お綱の命日が寛1630年(寛永7年)3月3日であるが、その約1年後の1631年(寛永8年)2月19日に、四郎左衛門は亡くなっている。
お綱が子供の首を腰に下げ、城へ歩いた道には草が生えなかった。
お綱門は今はもう無いが、お綱門に触ると熱病に冒され、夜にうなされるともいう。お綱と子供たちが住んでいた下屋敷の跡地に、慰霊碑が建てられ、今だに線香があげられているという。
福岡城の2代目藩主・忠之が参勤交代の折、大阪で采女という芸妓を寵愛して福岡まで連れて帰った。
しかし家老にたしなめられて、近臣の浅野四郎左衛門に第二夫人にするよう下げ渡した。その美貌から四郎左衛門は采女にのめり込み、正妻のお綱とその二人の子供を下屋敷に置いたまま、顧みなくなった。
やがて生活にも窮するようになったお綱はせめて子供の節句の支度にと、采女の許に下男を送るが相手にしてもらえず、下男はそれを苦に首を吊ってしまった。
この出来事でお綱は狂乱。
二人の子供を殺し、その首を腰にぶら下げると、白装束に薙刀のいでたちで四郎左衛門のいる屋敷へ決死の駆け込みを行った。
しかし四郎左衛門は登城して不在、そこに寄宿していた浪人の明石彦五郎に斬られてしまう。
「せめて一太刀浴びせたい・・・」と、お綱は息も絶え絶えに城に入り込むが、東御門に手を掛けたまま絶命してしまう。寛永7年(1630年)の桃の節句の日であった。それから東御門は「お綱門」と呼ばれるようになったと言われている。
福岡県福岡市中央区城内1−4