吉良神社 七人ミサキ

この神社では「七人ミサキ」の始まりとされる吉良親実を祀った神社となっている。七人ミサキとは、事故や災害など主に海や川で溺死した人間の七人の死霊で、水辺に現れるという。

この七人ミサキを見たり、遭った者は取り憑かれて高熱を出して死んでしまうと言われており、一人を取り殺すと七人ミサキの中の一人が成仏して殺された者が加わると言われている。その為、常に七人の死霊とされている。

事の始まりは、1588年(天正16年)10月04日、吉良親実が長宗我部元親の怒りを受けて、小高坂で切腹し腹真一文字にかき切り腸をつかみ出すところを、検使の宿毛甚したのは左衛門が大刀を振りおろした。

元親の怒りはそれだけで収まらず続いて数日の間に、親実の旧臣であり親実にくみしていた
勝賀野次郎兵衛實信、城ノ内大守坊、小島甚四郎、宗安寺真西堂、永吉飛騨守宗廣、吉良彦太夫、日和田与三左衛門ら七人がことごとく斬られた。
(吉良親実はこの「七人ミサキ」の怨霊には含まれておらず、親実を含めると8人になる。)

それ以降、小高坂の屋敷跡や、親実の墓のある木塚山のあたりから、夜毎に人の怨霊が変化した妖怪「怪火(ケチビ)」が現われるようになったり、小高坂では首のない武士が白馬に乗ってはしるのを見たという話や、大入道が鉄棒を引っぱってはしるのを見たという者も居たという。
その死霊に遭ったり、見たと言う人は、その日から大熱を発しいたるところで大病人や変死の人が相次いだという。

一方、元親に取り入って悪口など言っていた人久武や親信の家にも死霊の影響により、8人の子が次つぎに発狂して7人まで死亡した
親信の妻も嘆き自害してしまったという。

元親は怨霊を怖れ供養をしたがまったく効果はなく、鎮めるために西分村益井(吾川郡木塚村西分、現・高知市春野町西分字増井)の墓に木塚明神を祀った。
これが現存する吉良神社となった。

高知県高知市春野町西分3521

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