三河島事故の現場

1962年(昭和37年)に発生した列車脱線による多重衝突事故(三河島事故)が起こり死者160人、負傷者296人を出した国鉄戦後五大事故の一つにで、現在でも死者の霊が彷徨っていると言われている。

事故から9年後のある夜、最終列車が事故現場にさしかかると線路内に大勢の蠢く人影が現れた。よく見てみると手足の無い者や、首がない者ばかりで「三河島事故」で亡くなった人達だと察したという。現在でも最終列車あとに事故現場に行くと、幽霊が徘徊してる人影が見える事が有るそうだ。

また、この付近を列車で走行していると、白い手のようなものが現れたり、心霊写真が撮れたりするのだという。

すぐ近くに江戸時代の時に処刑場として使われていた小松原処刑場があり、処刑された怨霊の仕業ではないかと言う噂もあった。

身元不明の遺体番号88

犠牲者の中には未だに身元不明が一人おり、駅近くの寺に行旅死亡人として葬られている。線路を歩いて事故に巻き込まれたと思われ、年齢は20代後半から30代ぐらい、丸顔の男性で身長は163cm手に数珠を持っていた。

遺体からモンタージュ写真が作成され公表されたが、知り合いであると名乗り出た人はいまだに居ない。そして、遺体番号88とよばれていた。

事故後

1963年(昭和38年)事故発生から1年後に駅北東の「浄正寺」に慰霊聖観音像が建立された。

東京都荒川区東日暮里3丁目2付近

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