川越街道 五本けやき

道路を整備しようとなった際に、このけやきが邪魔になり撤去しようとしたが、関係者に不幸が相次ぎ死亡した者も出たという。祟りを恐れた関係者はこの「五本けやき」を伐採するのを止め、不自然な形で残されたと言われている。

タクシーの無線に女性のすすり泣く声が入ってきたり、和服姿の女性の霊が現れるという噂もあるようだ。

以前に心霊番組などでも取り上げられ心霊スポットとして知られるようになった。

五本けやき

大正十二年(一九二三) 九月の関東大震災で、甚大な被害を受けた東京の市街地は、復興とともに近郊の農村部へも急速に拡大していきました。その際、道路網の整備も計画されました。

江戸時代に、中山道の平尾追分(現板橋一丁目)で分岐され、江戸と川越を結ぶ往還として整備された川越街道は、蛇行して道幅も狭く、荷車などの往来でできた轍も通行の支障となっていました。

川越街道は、震災復興計画の中で、東京から周辺部へ放射状に延びる幹線放射道路の一つとして再整備が計画され、その拡幅と直線化のため用地取得が必要となりました。

この地には、醤油醸造業を営み旧上板橋村村長・東京府会議員も務めた飯島弥十郎家の屋敷林がありましたが、道路用地となったことで伐探される予定でした。

しかし、同氏の強い要望により、道路中央部にその一部を残すことで新川越街道(現国道二五四号)が完成しました。

新川越街道の中でも特徴的な景観となったケヤキの木立は、「五本けやき」と呼ばれ親しまれてきました。立ち枯れにより、三本になってしまった時期もありましたが、地元有志らによっ
て二本が移植され、元の姿を取り戻しました。

昭和四十五年(一九七〇)には、五本けやき保存会が結成され、その保護活動が行われています。

平成三十一年一月 板橋区教育委員会

東京都板橋区上板橋

五本けやきの基本情報

昭和初期の川越街道の拡幅工事の際、当時の上板橋村村長であった飯島いいじま彌十郎やじゅうろうが屋敷林の一部のけやきを残すことを条件に土地を提供しました。こうして残された屋敷林が5本残り「五本けやき」とよばれるようになりました。

その後、1970年(昭和45年)9月11日2本が枯死したと読売新聞の夕刊に「五本けやきが三本けやきになってしまった」という旨の記事が記載されて、その後植え替えられている。

関東大震災

1923年(大正12年)9月1日11時58分
南関東および隣接地で大きな被害をもたらした地震災害。死者・行方不明者は推定10万5,000人で、明治以降の日本の地震被害としては最大規模の被害となっている。

関東大震災では火災による焼死が多かった。これは通過中の台風が影響し、吹き込む強風が関東地方に吹き、木造住宅の密集していた当時の東京市(東京15区)などで火災が広範囲に発生したからである。

東京都板橋区上板橋1丁目19−11

  1. 2022年(令和4年)7/21(木) 日本全国 最恐心霊スポット完全ガイド

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