その昔、累ヶ淵には累という女性の怨霊と、その除霊をめぐる物語の舞台として歌舞伎や落語などにもなった場所として知られている。
事の始まりは1612年(慶長17年)に百姓の与右衛門と、後妻のお杉の夫婦が居た。お杉の連れ子である娘の助は生まれつき顔が醜く、足が不自由であったため、与右衛門は助を嫌っていた。
そして、助が邪魔だと思うようになり与右衛門は、助を鬼怒川で殺してしまう。
その後、与右衛門とお杉の間に女の子が生まれ、累(るい)と名付けた。
累が成長するにつれ、その容姿が助に似ていた事から、「助がかさねて生まれてきた」助の祟りと噂になり「かさね」と呼ばれた。
やがて、与右衛門とお杉は亡くなり独りになった累は病気で苦しんでいた流れ者の谷五郎(やごろう)という男性を看病し睦まじい関係となり、二代目与右衛門として婿に迎える。
婿となった谷五郎だが、日にちが経つにつれ容姿の醜い累を殺して他の女性と一緒になりたいと思うようになった。
そして、1647年(正保4年)8月11日谷五郎は家路を急ぐ累の背後に忍び寄り、鬼怒川に突き落とし殺害した。
その後、谷五郎は幾人もの後妻をめとったがすぐに死んでしまう。
ようやく6人目の後妻のきよとの間にようやく女の子を授かり、菊(きく)という名を付けた。
1672年(寛文12年)に菊に累の怨霊がとり憑き、苦しめるようになった。
その噂を聞きつけた祐天上人は、累の解脱にしたが、再び菊に何者かがとり憑いた。
祐天上人が問いただしたところ、助という子供の霊であった。
この話から累と助の経緯が明らかになり、祐天上人は助にも十念を授け戒名を与えて解脱させたという。
茨城県常総市中妻町58