ここにはかつて田原氏の居城だった浜田城がそびえていたが、1575年に織田信長の家臣、瀧川一益の軍勢に攻められ落城。多数の死者が出た。浜田城3代目城主の浜田遠江守元綱の最期は子供を逃がした後に家臣と共に切腹し、城に火を放ち落城。
鵜森神社は最初、浜田城の歴代城主を神として祀っていたが新領主の配慮により表向きは神を祀っていると届け出た。それ以降、いつの間にか合祀という形にして、現在に至っている。
合祀とは言うものの慰霊祭もせず・慰霊碑すらもなく、現在も全く何も供養をしていない。浜田城の武将達の霊は鵜森神社の境内にある塚にいまだ供養されることなく怨念を抱いている。100年以上続く浜田城にも関わらず、巻物や鎧など一切何も残っていない。
なぜなら自分達を助けることなく、混乱に乗じて城の物を一切合財持ち逃げし、死者の追い剥ぎをしたとされているからだ。地元民に対する怨念は凄まじいものがある。
今でも地元住民への怨念を抱いた武士の霊が彷徨っているのだという。
江戸時代の初めになり、田原氏に仕えた家臣達の手で城址に鵜森神社が建立された。平成になって、何も知らない鵜森神社関係者が塚に伊勢神宮の遥拝所の札を建て、今なお神域として立て札を建てたり注連縄を張ったり、罰当たりなことをしている神社だ。
そして隣接する鵜森公園には戦没者慰霊碑があり、その横には四つ墓がある何のために建立したのか一切説明がなされていない。
市役所へ問い合わせたら、鵜森公園拡張工事で掘り起こされた墓らしく歴史的建造物として公園へ建てたという。
鵜森神社・鵜森公園は昔から治安が悪く自殺や殺人が後を絶たないとも言われており、霊が集まりやすい環境ができていると言われている。
三重県四日市市鵜の森1丁目
三重県四日市市鵜の森1丁目13−17
地元民に対する怨念?そもそも戦を始めた奴らが好き放題に田畑を荒らし、勝手に死んでんだからね、知ったこっちゃねぇわな。
高価な武具が売れるんだからどこの戦場にだって追い剥ぎは居ますし。別にココに限った事じゃありませんわな。
霊も集まるかも知れんがゲイも集まるって噂ですね。
合祀とは言うものの慰霊祭もせず→毎年8月に城主の御霊を慰める例祭を行っているとHPに書いてありますよ。鵜森神社は、立派な社務所があって神社のお世話をする人も毎日います。心ない人がゴミを捨てていってもきちんとお掃除をしてくださり、街中の神社ですが、境内の清浄も保たれていると思います。近くに四日市の氏神の諏訪神社っていう大きな神社があるにも関わらず、鵜森神社を崇敬する市内の企業もあります。色々な見方があると思いますが、小さな神社で、近くに大きな諏訪神社があるにも関わらず、これだけしっかりしているという事は、鵜森神社の神様の御神威(パワー)が凄いんだと思います。凄いって事は、もし罰当たりな事をしたら…
最近神社の裏で首吊りがあり発見者が子どもでした。
30年前に鵜森公園近くに住んでいましたが、夜遅く帰ると、たびたび目撃した、ロングコートをきた、ハイヒールに編みタイツで下着姿の女装した人が、よく私を驚かせた事を思い出しました。もういないよね?