井戸の中から男性の霊が現れると言われ地元では「近寄ってはいけない場所」と認識されており、近づくと霊に憑りつかれたり、霊を家に連れ帰ってしまうという噂が根強いです。
深夜に井戸を覗くと、赤い光とともに白い煙が立ちのぼり、影が現れて消えるという話しも有るようです。夜になると不気味に感じ逃げるように足早に通り過ぎる人も居るようです。
「まだない」という老人のような低い声が聞こえるという話しがあります。皿を数える怪談(皿屋敷)に似ているため、混同される理由の一つとされています。
井戸の埋め戻しに伴う祟りや「呪われている」といった話も語られます。実際、井戸は古来水神を祀る対象で、埋め戻しの際にはお祓いや息抜きが慎重に行われる風習があります。
地元メディア(四国新聞の連載企画「かがわの都市伝説」など)で紹介された説として、「江戸時代の隠れキリシタンにまつわる悲劇が関係しているのではないか」という都市伝説的な背景が語られることがあります。
これらはすべて噂・体験談・サイトの記述であり、科学的・公式な裏付けはありません。実際に訪れた人の中には「特におどろおどろしい感じはしなかった」という声もあります。駐車場内で一般公開されている史跡なので、昼間に見学する分には問題ありませんが、夜間の肝試しや不用意な行為は周囲への迷惑や事故の原因になるため避けた方がよいでしょう。
血屋敷井戸趾の基本情報
2005年5月、高松三越が所有する土地で、高松丸亀町商店街A街区の市街地再開発に伴う立体駐車場建設前の埋蔵文化財発掘調査中に発見されました。高松城(玉藻城)を築城した生駒親正の時代(安土桃山時代1573年~1603年)に作られたとされる井戸です。
東西約4m、南北約6mの長方形で、高さ約1.6m以上の石垣に囲まれた大型井戸(近世武家屋敷の井戸)です。底から常に水が湧き出る構造で、生駒家の家紋が刻印された石なども確認されています。
発掘成果は現地説明会で公開され、高松市教育委員会が2006年9月に報告書『高松城跡(厩跡)』(高松市埋蔵文化財調査報告第96集)をまとめました。古地図「東讃高松絵図」などでも同位置に「血屋敷井戸趾」と明記されています。
高松城(生駒親正が築城)の南端付近、現在の丸亀町商店街北詰め・高松三越北側の立体駐車場にあります(住所の目安は高松市内町2丁目付近)。高松城下町の上水道関連遺構の一つで、披雲閣井戸、今井戸、亀井戸、大井戸などとともに、扇状地の水源として機能した井戸群の一つです。降水量の少ない讃岐地方では井戸が極めて重要で、藩政期の給水施設として位置づけられています。
「血屋敷」という名称
正確な由来は公式には不明で、生活用水以外の用途(処刑や血にまつわる出来事など)を想像させるおどろおどろしい名前として知られます。皿屋敷伝説との混同を指摘する人もいますが、古地図に明確に記されているため、単なる誤記ではありません。
一説には、江戸時代末期などの古地図を転写・復刻する際、元の文字が誤って書き写された(または「茅屋敷」などの別の表記が変化した)ことによって「血屋敷」という文字が定着してしまったという説があります。
「血屋敷」という名称の不気味さから、「処刑された人の血が流れた」「人を斬った場所だった
死体を井戸に投げ込んだ幽霊が出る」といった噂や都市伝説(心霊スポット的な噂)が囁かれることもありますが、史実として特定の殺傷事件などが記録されているわけではありません。
血屋敷井戸趾の説明(現地にあるプレート)
ここに設置されている三角の石柱には、頂点から時計回りに「安倍晴明」「崇徳上皇」「弘法大師」という文字と中央に「高松城」と記号が掘り込まれたのが設置されており、さらに下にこのようなプレートが有ります。
桃山時代1588年のこと。瀬戸内海交易の要所に うかぶ 高松城を設計したのは、天下とりを ねらう 黒田官兵衛である。
初代城主生駒親正(いこまちかまさ)は、豊臣秀吉 なきあとは キリシタン大名 黒田の時代が かならずくると 信じて おうえんした。
大願成就を ねがい、この場所に、黄金比で かこんだ 石積みの礼拝所を きずいた。
ゆるぎない団結の あかし として、高松城 南蛮天守閣を みとおす位置の ハート形つみ石には、ふたりの印(しるし)が ひそかに 彫りこまれた。
この礼拝所は 丸亀町商店街からは 鬼門の方角でもあり、 発展する城下町の 悪霊から守る 役目もあった。
いつしか礼拝所は 埋めたてられ、歴史から けされて しまったが、高松藩住宅古地図には そのあとを、おどろおどろしい暗号で「血屋敷井戸」と 明記している。
香川県高松市内町2 高松丸亀町壱番街駐車場
