凶作と疫病が同時に民を襲い、餓死者も出たために、竹槍をもって城に押し寄せ願いはいったん聞き入れられたものの、1カ月後には無かったものとされ、幼い娘まで含め28人処刑された。
処刑された百姓たちの恨みは深く、今でもこの塚の周囲では百姓達の怨念が渦巻いていると言われている。
1684年(貞享元)凶作が続き農民の生活は苦しく、農民の悲願を受けた庄屋の加助が年貢の軽減を長尾組の組手代に申し出ますが受け入れられず、松本藩に陳情したことによって、庄屋の身分を取り上げられました。
その2年後、凶作と疫病が同時に民を襲い、餓死者も出たために、加助は神社の拝殿で12人の密議のうえ年貢軽減の「5カ条の訴状」を松本城下郡奉行に提出します。
松本平の農民1万人が、竹槍をもって城に押し寄せる騒ぎになりました。願いはいったん聞き入れられたものの、1カ月後にはなかったものとされ、この騒動を指揮した罪で加助とその同志、一族ら28人は幼い娘まで含めて勢高と出川の刑場ではりつけ、打ち首の刑に処されました。
参考資料:松本市観光情報 貞享義民塚
長野県松本市宮渕3丁目7