キリシタン殉教記念公園

大分は隠れキリシタンの多かった土地で、約200名と最も殉教者を出した場所であると言われている。

このキリシタン公園には迫害されたキリスト教信者の処刑場だったという話があり、今では多くのお墓や供養碑が有り無念で処刑された人の魂が渦巻いていると言われている。

大分県は、安土桃山時代(豊後国と呼ばれていた時代)には、領主であった大友義鎮(宗麟)らのキリスト教への改宗の影響もあって、日本における布教の中心地のひとつとなって、最盛期には1万人を超えるキリシタンがいたと言われている。

1612年(慶長17年)に幕府直轄領にキリシタン禁教令が出され、翌年に全国に拡大されると、キリシタンの中心地のひとつであった豊後国でも厳しい取締りが行われた。

1659年(万治2年)からの豊後露見(豊後崩れ、万治露見とも)では、豊後国内で一説には1,000人を超える殉教者が出た。
中でも、現在、キリシタン殉教記念公園がある葛木では、14歳の少女から84歳の老人まで約200名が殉教した。

キリシタン殉教記念公園は、1960年(昭和35年)6月に、キリスト教徒であった当時の大分市長上田保が中心となって、大分県下の殉教者の信仰を偲び、その霊を慰めるために、最も多くの殉教者を出し、獄門原と呼ばれた葛木に整備されたものである。

大分県大分市葛木358−3

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