「津山の三十人殺し」とも言われる1938年に起きた事件で、都井睦雄という結核を理由に村から孤立していた21歳の男が日本刀と猟銃を使い2時間ほどの間に30人を殺害。その後山の頂上で遺書を書き猟銃で自殺した。
都井睦雄の怨念や、無念に死んでいった村人の怨霊が渦巻いており、そんな霊達に取り憑かれ、良くない事が起きると言われている。
日本歴史至上最悪の事件と言われており現地でこの事件について触れないようにしている。
事件・事故
津山事件
1938年(昭和13年)05月21日
都井睦雄という男性が結核を理由に村から孤立し、改造猟銃と日本刀を使い2時間ほどの間に次々と村人を襲い、28名が即死し、5名が重軽傷を負った。
重傷を負った村人のうち2名が12時間後までに死亡した。
その後、山の頂上で遺書を書き猟銃で自殺した。
最初の殺害:自宅で就寝中の祖母の首を斧で刎ねて即死させた。
1名殺害
1軒目:都井宅の隣のA宅に侵入。妻、子供3人、殺害。
4名殺害
2軒目:B宅に侵入。妻とB、娘2人を射殺。
4名殺害
3軒目:C宅に侵入。Cと妻、農業の手伝いにきていた親戚も射殺。
主人の母親は「頼むけん、こらえてつかあさい」と足元にひざまづいて命乞いをするが、「お前んとこにはもともと恨みも持っとらんじゃったが、(恨みを持っている家から)嫁をもろうたから殺さにゃいけんようになった」と言って猟銃を発砲。
初速度の低い至近距離での発砲・肋骨への被弾が幸いし、奇跡的に一命を取り留めた。
3名殺害
4軒目:D宅に侵入。D、長男と妻、五女、六女を射殺。四女は隣に逃げ込む。
5名殺害
5軒目:D家の四女が逃げ込んだE宅。
Eは床下に娘を匿ったが、Eの父親が射殺された。
D家の四女、E家の四女が負傷。
1名殺害
6軒目:F宅に侵入。Fと母親を射殺。
2名殺害
7軒目:G宅に侵入。
Gの妻と養蚕手伝いで泊り込んでいた2人の娘に発砲。
この時、Gは、返り血を浴びた都井に猟銃を突きつけられたが、逃げることもせず茫然と座っていたところ、「お前はわしの悪口を言わんじゃったから、堪えてやるけんの」と言われて見逃された。
1名殺害
8軒目:H宅に侵入。
Hの妹と母親を射殺。逃げ切ったHは隣町の駐在所に事件の第一報を報告した。
2名殺害。
9軒目:I宅に侵入。
Iの両親と妻、子供を射殺。
4名殺害
10軒目:J宅に侵入。Jの妻は雨戸を開けて外を覗いている時に射殺。
1名殺害
11軒目:K宅に侵入。Kと妻2人を射殺。
2名殺害
遺書
愈愈死するにあたり一筆書置申します、決行するにはしたが、うつべきをうたずうたいでもよいものをうった、時のはずみで、ああ祖母にはすみませぬ、まことにすまぬ、二歳のときからの育ての祖母、祖母は殺してはいけないのだけれど、後に残る不びんを考えてついああした事をおこなった、楽に死ねる様と思ったらあまりみじめなことをした、まことにすみません、涙、涙、ただすまぬ涙がでるばかり、姉さんにもすまぬ、はなはだすみません、ゆるしてください、つまらぬ弟でした、この様なことをしたから決してはかをして下されなくてもよろしい、野にくされれば本望である、病気四年間の社会の冷胆、圧迫にはまことに泣いた、親族が少く愛と言うものの僕の身にとって少いにも泣いた、社会もすこしみよりのないもの結核患者に同情すべきだ、実際弱いのにはこりた、今度は強い強い人に生まれてこよう、実際僕も不幸な人生だった、今度は幸福に生まれてこよう。
思う様にはゆかなかった、今日決行を思いついたのは、僕と以前関係があった寺井ゆり子が貝尾に来たから、又西川良子も来たからである、しかし寺井ゆり子は逃がした、又寺井倉一と言う奴、実際あれを生かしたのは情けない、ああ言うものは此の世からほうむるべきだ、あいつは金があるからと言って未亡人でたつものばかりねらって貝尾でも彼とかんけいせぬと言うものはほとんどいない、岸田順一もえい密猟ばかり、土地でも人気が悪い、彼等の如きも此の世からほうむるべきだ。 もはや夜明けも近づいた、死にましょう。
この事件から金田一耕助シリーズの『八つ墓村』が作られた。
1977年の映画化の際、キャッチコピーとしてテレビCMなどで頻繁に流された「祟りじゃ〜っ! 八つ墓の祟りじゃ〜っ!」という登場人物のセリフは流行語にもなった。
この津山事件を題材にしている西村望の『丑三つの村』というのも作られた。
岡山県津山市加茂町行重742
連盟脱退の緊迫と開戦直前の空気は尚一層ー義兄への引け目と病身の生き恥とー本当に一帯の全て丸々悼み平和を祈念したい現場です。
凄惨な事件が起こった場所ではありますが、心霊系の話は聞いたことがないのに心霊スポットにあげられてるのは何故なのでしょうか?単なる事件現場やん。こういったいわれのない所にのせられると地元の方々が迷惑するのでは?
この辺で霊がでるの