事故で死亡した者の霊や浮遊する生首が出るという噂から、残酷な虐殺を行って死んでいった霊たちが出ると言われている。
その昔に連合赤軍が、「総括」と称し残酷な虐殺を行った現場として知られている。
連合赤軍が行った「総括」という名の暴行行為は、狭い社会においてねじ曲がった価値観として正当化され、多くの人間が撲殺され、また寒風吹き荒れる野外に放置されて凍死したという。
またその他に、内部では「死刑」という制度も設けられており、その際には刃物なども使われていたそうだ。
殉難碑
勘定奉行小栗忠順、家臣塚本真彦の母ミツ、娘チカ(八才)この地に近き谷合に殉難す
両女は慶応四年(1868年)四月六日、権田村における西軍暴挙の難を避けたるも、七日市藩へ逃れる為地蔵峠を目ざしたるも山中に道を失い遂に力尽き、同八日この地に近き谷間において自害せり
遠く悲しき歴史に思いを馳せこの地に祈念碑を建て永くその霊を悼む。
〜ほととぎす 鳴き来た山や 雨の神〜
昭和五十七年四月 建之
倉渕村小栗上野介顕彰会
石碑の裏には小さな祠が奉られていた。
群馬県高崎市倉渕町水沼2854−4