真昼間、竪穴式住居で黒い布を纏った女性が何か両手を広げて呪文のような言葉をつぶやいて儀式のような事をしている姿を目撃したそうです。その女性は生きている人なのか、死んでいる幽霊なのか分からなかったそうです。顔は布で隠され、声をかけると煙のように消えたという話しも有るようです。
遠足などで訪れた際に記念撮影をすると、高い確率で心霊写真が写ってしまうという話しも有ります。
昼夜を問わず、ブランコや滑り台周辺で白い服を着た少年の霊が現れじっと見つめるだけで反応がなく、数秒後に消えるという。夕暮れ時には風もないのにブランコがひとりでに揺れるという話しも有るようです。
少し変わった怪奇現象として、古い掲示板の投稿には、夜中に原始人が走り回っている
姿を見たという噂もあります。
これは恵下山公園周辺に弥生時代から古墳時代の遺跡や竪穴式住居跡があることと結びついて生まれた、地元の子供たちの噂や都市伝説だった可能性があります。
ネット上にまとめられた古い掲示板投稿には、2010年頃の書き込みとして、このような噂を思い出したという話が残されています。
一方で、これらの怪異の発端となった具体的な死亡事故・殺人事件・古い怪談の原典は、今回の調査では確認できませんでした。特に「少年の霊」については、その少年が誰なのか、なぜ現れるとされるのかという由来も不明です。
そのため、恵下山公園の心霊現象は、実際の事件を基にした怪談というより、遺跡や山城跡という場所の雰囲気と、学校の遠足にまつわる心霊写真の噂から発展した都市伝説型の心霊スポットである可能性が高いと考えられます。
恵下山公園の基本情報
1972(昭和47年)~1973年(48年)、高陽ニュータウンの造成に伴って発掘調査が行われ、弥生時代後期~古墳時代初頭の集落跡などが発見されました。重要性が認められ、1974年(昭和49年)4月25日に広島県史跡に指定されています。
この公園は単なる公園ではなく、県指定史跡「恵下山・山手遺跡群」の一部として整備・公開されています。高陽ニュータウン建設中に発見された遺跡群で、主に以下の3つからなります。
- 恵下山遺跡
弥生時代後期~古墳時代初頭の集落跡と、古墳時代後期の竪穴住居跡5棟や横穴式石室を持つ円墳など。尾根上に直径約6mの円形住居跡がまとまって見つかっています。 - 恵下山城跡(別名:会下山城、恵下山ノ城)
鎌倉時代末期~室町時代後期の中世山城(標高約69m、比高約65mの丘城)。太田川や谷を天然の外堀として活用し、本丸・二の丸を含む複数の郭(曲輪)で構成されています。石垣や堀切などの遺構が残り、出土品から生活の様子もわかります。城主は金子氏などと伝えられますが詳細は不明で、『🔗陰徳太平記』では対岸の八木城主・香川氏との抗争が記されています。石室からは、🔗須恵器、🔗鉄刀、馬具などが出土しています。 - 山手遺跡弥生時代後期の集落跡と古墳時代の土壙墓、竪穴住居跡4棟などが見つかっており、当時この丘陵上には複数の住居が存在していたと考えられています。
恵下山公園を歴史的に見ると
弥生時代の集落
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古墳時代の墓
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中世の山城
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高陽ニュータウン造成
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遺跡保存
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現在の史跡公園
特に興味深いのは、「一つの丘陵に弥生時代・古墳時代・中世の痕跡が重なっている」ことです。広島市内で古代史や山城跡を見て回るなら、かなり面白い場所だと思います。
現在の恵下山公園には、普通の児童公園としての設備もあります。
- ブランコ
- すべり台
- 砂場
- 広場
- 遊歩道
- 展望できる高台
入り口には桜が並び春にはお花見も楽し地域住民の憩いの場になっています。
陰徳太平記(いんとくたいへいき)
1717年(享保2年)江戸時代中期に出版された軍記物語(歴史を題材にした読み物)です、正式には『関西陰徳太平記』といい、岩国領(現在の山口県)の吉川氏(毛利氏の一族)に仕えていた家老・香川正矩(かがわ まさのり)が執筆を始め、その次男である景継(かげつぐ)が加筆・完成させました。
須恵器(すえき)
古墳時代中頃(5世紀初頭)から平安時代(10世紀頃)にかけて日本で作られた、青灰色で硬い陶質土器(炻器)です。朝鮮半島から伝わったロクロや窯の技術を使い、1,000℃以上の高温でいぶし焼き(還元炎焼成)にして作られました。水が漏れにくく丈夫なため、食器や保存用の容器として広く使われました。

鉄刀(てっとう)
弥生時代から古墳時代にかけて大陸から伝わり、主流となった鉄製の直刀。江戸時代には相手を過度に殺傷せず制圧するための刃のない捕具・護身用武具としても使われました。また、非常に堅い木である「タガヤサン(鉄刀木)」の略称としても用いられます。
広島県広島市安佐北区真亀3丁目23−1

