「道の駅 萩往還」の駐車場から階段を下りたところにある日本初の罪人の遺体解剖(腑分)がおこなわれた処刑場跡地。解剖されたのは17歳の「阿美濃(おみの)」という女性で夫の暴力に耐えかねて夫を殺害した罪で処刑されました。
夜間に首のない女性の影が竹藪の中に現れるという噂や、地蔵の前で手を合わせると耳元で「まだ、生きたかった・・・」という女性の声が聞こえてきたそうです。
石碑前でカメラ調子が悪くなったり、映像に奇妙な呻き声が入る、訪れた後に体調不良になる人もいるとう噂も有るようです。
一部の情報では少年の霊の目撃も語られますが、主な怨念は於美濃の無念の死と、死後も解剖された苦しみに関連づけられています。昼間でも陰鬱な雰囲気で、背後に冷たい視線を感じるという声もあります。
このスポットは、江戸時代の医療進歩(蘭学の影響)と人道的な悲劇が交差する、複雑な歴史を伝える場所です。心霊話は都市伝説的な要素が強いですが、実際に訪れる際は敬意を持って行動してください。
栗山孝庵(獻臣)女刑屍体腑分之跡の基本情報
1754年(宝暦4年)京都の山脇東洋らによる日本初の解剖から5年後、1759年(宝暦9年)栗山孝庵は日本で初めて女性の罪人の遺体解剖(腑分)をこの大屋刑場で行いました。
処刑されたのは萩城下川上村の百姓の妻だった17歳の阿美濃(おみの)という女性です。
夫からの酷い暴力に耐えかねて夫殺しの罪を犯してしまい、本来は「磔(はりつけ)の刑」とされていましたが、磔では内臓が傷ついてしまうため、解剖による人体構造の解明を志していた栗山孝庵が藩へ働きかけ、「斬首刑」へと変更してもらった経緯があります。
当時の医学界では「男女で内臓の配置や構造が異なるのではないか」という古い東洋医学的な説や疑問が残っており、女性の人体構造を直接観察して実証した例は日本でこの時が初めてでした。
この出来事は、江戸時代の人体解剖が極めて稀で、タブー視されていた時代に、医学の発展のために刑死体を利用した歴史的事例です。
石碑に刻まれた「刑屍体」「腑分(解剖のこと)」という物々しい字面が、予備知識のない訪れる人に強いインパクトを与えます。
「女刑屍体腑分跡」と紹介されることも有る
女体解剖地跡と一里塚(立て看板)
大屋涙松から鹿背坂までの旧街道沿いに大屋刑場跡と忰坂一里塚があ ります。 宝暦9年(1759年) 毛利藩医・ 栗山孝庵が我が国で最初の女体解剖を行ったのが、この大屋刑場跡です。 いまは竹藪におおわれていて刑死者を供養するための石地蔵が建っています。 また、この一里塚(県指定史跡)は、 萩市内の唐樋の札場跡から一里のところにあり、現存する ものとしては珍らしいものです。
日本医学史における位置づけ
日本初の人体解剖(京都)
1754年(宝暦4年)
京都の漢方医・山脇東洋(やまわき とうよう)らが男性罪人の解剖を実施。翌年『蔵志』を著し、実証医学の先駆けとなる。
長州藩初の解剖(男性)
1758年(宝暦8年)
東洋の弟子である栗山孝庵が、萩の手洗川(て洗川)刑場で長州藩初(日本で2例目)の解剖を実施。
日本初の「女性解剖」(大屋刑場)
1759年(宝暦9年)
栗山孝庵が17歳の女性「阿美濃」の遺体を解剖。女性の人体構造を直接観察・記録した日本初の快挙となる。
『解体新書』の刊行
1774年(安永3年)
杉田玄白・前野良沢らが『解体新書』を出版。孝庵ら先人による人体観察の実践が、日本の西洋医学受容の確かな基礎となった。
山口県萩市椿
