一条戻橋

歴史は古く、794年に架けられて以降いくつかの伝承も残っている昔からの心霊スポットと言えるだろう。現在は怖いイメージなどは一切なく「清明神社」と共に観光スポットにもなっている。

伝説

様々な言い伝えが残る「一条戻橋」

死者が蘇った橋

918年(延喜18年)12月に中国伝来の学問、漢学者の「三善清行」の葬列が行われ、この橋を通っていた。

その時に、熊野で修行をしていた息子の子浄蔵が駆けつけ棺桶にすがって祈ると雷鳴と共に「三善清行」が一時生き返り抱き合ったという。

この事から「戻橋」と言われるようになったという

「撰集抄」の七巻

渡辺綱が鬼の腕を切り落とした

武人である「渡辺綱(わたなべのつな)」が夜中に戻橋のたもとを通りかかると、美しい女性が居た。

こんな夜中に女が一人で居るの怪しいと思いながら、夜も更けて恐ろしいので家まで送って欲しいと頼まれ馬に乗せ送る事にした。

すると、女はみるみる鬼へと姿を変えて襲ってきた。鬼は綱の髪をつかみ愛宕山の方向へ飛び去ろうとしたときに、綱は持っていた太刀で鬼の腕を一刀両断。綱は無事に鬼から逃れる事が出来、この時に使った太刀は名刀「髭切の太刀」として伝えられている。

そして、切り落とされた鬼の腕は、綱の屋敷に置かれていたが、義母に化けた鬼が取り戻したと言われている。

「平家物語 剣」

陰陽師・安倍晴明の式神が忍ばせていた

陰陽師・安倍晴明の式神の顔が怖いと妻が言っていたので、この橋に式神を忍ばせており、必要な時に呼び出していたと伝えられている。

島津歳久と千利休の首が晒された場所

安土桃山時代に、豊臣秀吉の命により「島津歳久」と「千利休」がこの橋で晒し首になったとう言い伝えも有る。しかし、「千利休」の首は「聚楽大橋」のたもとで晒されたという記述もある。

嫁入り前の女性は通ってはいけない

嫁に行くと「出戻り」なるというげんかつぎから、嫁入り前の女性は渡ったり、近づかない方が良いと言われており、近づかない習慣を持っている人も居るみたいだ。

戦争から無事に戻ってきて欲しい

逆に無事に戻ってきて欲しいという願いから、太平洋戦争中にこの橋を渡り、無事に戻ってきたという話しも有るようだ。

京都府京都市上京区1条通19丁目

地域 : 近畿 | 京都府
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著者: 管理人

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