「地図から消された島」や「毒ガス島」などと呼ばれ、第一次世界大戦以降の化学兵器製造の実態を今に伝えている。
毒ガス製造時の職員達が毒ガスの犠牲になり苦しみながら数多く亡くなっており「大苦の島」とも呼ばれていた。現在は観光地となっているが、霊の目撃や、はっきりと写真に写りこむ心霊写真などが撮られている。
大久野島の基本情報
第一次世界大戦時に、地理的な条件や秘匿の容易さなどから、大久野島を化学兵器の生産拠点に選ばれた。化学兵器は、1925年のジュネーブ議定書で戦争での使用が禁止されていたが、開発保有は合法だった。
陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所(後に東京第二陸軍造兵廠忠海製造所)と呼ばれており、主な生産施設には島内北西部の長浦工場地帯と三軒屋工場地帯の2箇所があったほか、発電所、材料・製品倉庫などの関連施設が置かれた。
毒ガス工場の存在は機密性から秘匿され、陸軍が発行した一般向け地図においても大久野島一帯は空白地域として扱われた。これにより地図から消された島と呼ばれるようになった。
大久野島で生産された毒ガスの総量は6,616トン、生産された毒ガスは、イペリットガス、ルイサイトガス、クシャミガス(呼吸困難)、催涙ガスの4種類である。地元の農民や漁民、勤労動員学生ら6500人が一定の養成期間を経て従事していた。
太平洋戦争終戦時に島内に残留していた毒ガスの量は、イペリットガス1,451トン、ルイサイトガス824トン、クシャミガス958トン、催涙ガス7トン、計3,270トンだった。
終戦後、周辺海域への海洋投棄、火炎放射器による焼却、島内での地中処分といった方法で行われ、除毒措置も施された。
しかし、処分は十分ではなく、現在でも島内地下4~5メートルの土壌で高濃度のヒ素が検出されるなど、負の遺産を受け継いでいる。
大久野島で働いていた職員達にも被害はあった。1950年に元従業者から喉頭がんが初めて発見され、また激しい咳や膿性のタン、原因不明の頭痛に悩まされる人が相次いだ。
また毒ガス後遺症の特性として知られる肺炎や慢性気管支炎、呼吸器系の癌になって数多くの職員が死んでいった。
毒ガス関係者のガン発生頻度は全国平均の15倍と報告されている。当時、大久野島で働いた約6600人の内、入通院した約4200人にも上ったと言われている。
1988年には大久野島毒ガス資料館が開館した。
大久野島には現在も危険な土壌汚染地域や倒壊の可能性がある建物もあるため、立ち入り禁止になっている場所も存在する。
また近年では多数のウサギが生息することでも知られ、ウサギ島とも呼ばれる。
広島県竹原市忠海町