三仏生百塚

その異様な光景と「百塚を数えてはいけない」という禁忌から、数えると命が縮まる、死ぬ、あるいは背負っていた赤子の首が飛ぶと言い伝えが残っています。

こうした禁忌のため、昔から正確な数は避けられてきたともいわれています。

また、百本のローソクを持って一本ずつ立てながら数えた人が、最後の塚でお参りしたらローソクが2〜3本余ってしまった別の人が150本持って同じことをしたら、最後の塚に着く前にローソクが全部なくなったという不思議な事も起きたと言われています。

三仏生百塚の基本情報

千谷との境から高梨方面へ向かって南北約1kmにわたり、141基(かつては150基以上あったとされる)の円形の小塚が直線状・等間隔に規則正しく並んでいます。

各塚の大きさは底径約4m、高さ約1.5m程度で、ほとんどが円形です。現在は塚の上に石仏(主に観音像)が安置されており、道路沿いの独特な景観を作り出しています。

江戸時代後期には、百塚を後世に残そうとする動きが始まり、弘化4年(1847年)には秩父・坂東・西国・越後の各三十三観音札所を模した石仏が塚の上に建立されました。現在も多くの塚の上に石仏が立っており、独特な景観を作っています。

50年ごとに供養も行われてきており、1890年(明治23年)の50回供養、1939年(昭和14年)の100回供養、1989年(平成元年)年の150年供養の記念碑も残っています。1990年(平成2年)には小千谷市指定文化財になりました。

沿道に古木の桜が続き、桜の名所として地元で親しまれています。

三仏生百塚が出来た言い伝え

昔々、米山の鬼五郎という盗賊がおり、鬼五郎は盗み奪った財宝を深夜になると三仏生に来ては埋めて上には塚を築いて石仏を安置し目印にしていたものを百幾つも作りました。

そして、それらが他人や手下の者に発見されるのを恐れ、自分でその場所に住み、夜の暗がりに乗じて忍みに来る者を殺していたが、いつの間にかいなくなってしまったしまったそうです。

その後、鬼五郎の子孫らしき二人の武士が古文書と地図で「九十九番目の塚」に宝があると突き止め、夜に探しに入ったが翌朝、互いに斬り合ったような死体で発見されたという。

三仏生百塚の祟り

昔々、三仏生百塚の近くに住む母親が子守をしていました。あまりにも泣くので子守歌代わりに百塚を数え始め、九十九まで数えてもまだ泣き止みません。

もう一度百塚を一から数え始めました。「九十七、九十八、九十九、百!」するとどうでしょう、今まで泣いていた赤子の鳴く声がピタリと止みました。そして後ろを振り返ると子供の首が切断されて頭が有りません。

周りを見渡すと「百!」と数え切った塚の上には子供の生首が乗っかっていましたそれ以降「百塚を数えると祟りがある」と恐れられ、地元では絶対に数えないタブーとなっています。

新潟県小千谷市三仏生

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