「西郷山公園」になる前の西郷山の雑木林で1933(昭和8年)に24体の遺体が埋められてた「目黒貰い子殺人事件」が起きており、成仏できてない子たちの霊が地縛霊となっていまだに彷徨っていると言われ、夜に「赤ん坊の泣き声を聞こえたら生きては帰れない」と言われています。
夕方暗くなってくると「さらわれる」「日が落ちたら西郷山には近づいてはいけない」とも囁かれているそうです。
怪談師で有名な「稲川淳二」は「西郷山公園」がある目黒区の生まれで、稲川氏の少年時代この西郷山の怪談は子どもたちの間で知らぬものはいなかったという。
西郷山公園の基本情報
江戸時代には豊後岡藩主・中川家の抱え屋敷があった場所で、明治時代に入り西郷隆盛の実弟である西郷従道(じゅうどう)がこの土地を購入し、別邸を構えたことが「西郷山」という通称で親しまれていたことから「西郷山公園」という」公園名が決まりました。
園内には桜島の溶岩が置かれており、かつてこの地が西郷家ゆかりの場所であったことを静かに物語っています。
約2万坪(10,549.65㎡)にも及ぶ広大な敷地には、フランス人技師が設計した洋館や書院造の和館、回遊式庭園があり、明治22年には明治天皇の行幸の舞台になるなど、政財界の華やかな社交場として栄えました。
その後、時代の変遷とともに敷地は所有者を変え、空襲による和館の焼失などを経て邸宅跡地の一部分が公園として整備され1981年(昭和56年)5月28日に開園しました。
(※奇跡的に戦火を免れた洋館は、現在愛知県の「博物館明治村」に移築され、国の重要文化財に指定されています。また、邸宅の中心だった庭園跡は、現在隣接する「菅刈公園」として復元されています。)
園内には河津桜をはじめ、ヤマザクラ、ソメイヨシノ、シダレザクラなどが植えられています。河津桜は比較的早い時期に咲くため、春先の名所の一つになっています。
目黒貰い子殺人事件
1933(昭和8年)3月に別の場所東京都深川区(現在の江東区北西部)でゴミ箱から生後2か月ぐらいの男児の絞殺遺体が発見されたことを発端に捜査が進み、東京都本所区(現在の墨田区南部)の簡易旅館喜久屋本店に潜伏し、まさに新たにた生後11ヶ月ぐらいの女児を手にかけていた川俣初太郎33歳が逮捕されました。
当時の日本には、貧困や未婚の母などの事情で育てられない乳児を、養育費と共に引き取る「貰い子(もらいご)」という裏ビジネスが存在しました。
川俣はきちんとした身なりとインテリ風の口調で親や産婆の警戒心を解き、「子どもさしあげたし」といった新聞広告を利用して、1人あたり10円〜30円の養育費とともに次々と乳児を引き取りました。ところが実際には、引き取った乳児を養育するのではなく、殺害していたとされます。
現場検証では、川俣がキャラメルをしゃぶりながら「ここじゃない」「あそこだ」「そんな掘り方をしてはいけないよ」と平然と警察官に指示を出していたという、異常で不気味なエピソードが記録されています
また、当初は「俺は仕事で子供を殺した。それの何が悪い」「うまくいくよう観音様へ毎日お祈りしていた」と嘯くなど、世間を震撼させる稀代の殺人鬼として連日新聞で報じられました。最終的に西郷山だけで24体(旅館で所持していた遺体含め合計25人分の遺体、27人の殺人を自供している)もの遺体が掘り起こされました。
川俣は後に獄中で改心し、自らの罪を深く悔いて裁判では「罪滅ぼしに早く処刑が願いたい」と涙を流すようにななっていたという。
1935年(昭和10年)9月23日一審で川俣に死刑判決
1936年(昭和11年)7月18日に市ヶ谷刑務所で絞首刑が執行されました。
「西郷山貰い子殺人事件」
「貰い子殺し事件」
「目黒もらい子殺し」
「川俣初太郎貰い子殺人事件」
等とも言われています。
東京都目黒区青葉台2丁目10−28
参考
