旧山里国民学校防空壕

第二次世界大戦の長崎の原爆が投下されたところから700mの距離にある防空壕で、当時この防空壕を掘っていた教職員や地域の住民のほとんどが亡くなってしまった。

霊感のある方が訪れると、吐き気や頭痛がしたり、気分が悪くなるという。

旧山里国民学校防空壕の基本情報

1932年に建てられた鉄筋コンクリート製の3階建ての旧校舎。1945年(昭和20年)8月9日午前11時02分に原爆が投下され、教職員など3人が即死、1581人いた児童も次々と亡くなり1300人あまりが死亡した。

当時、旧山里国民学校には20以上の防空壕があったという。今でも戦争の悲惨を伝えるために修学旅行でも訪れる学校もあり、綺麗に整備されている。

第二次世界大戦

1939年(昭和14年)9月1日~1945年(昭和20年)8月15日(または9月2日)
連合国・枢軸国および中立国の軍人・民間人の被害者数の総計は5000万〜8000万人とされる。8500万人とする統計もある。当時の世界の人口の2.5%以上が被害者となった。民間人の被害者数:3800万〜5500万(飢饉病気によるものは1300万〜2000万)。軍人の被害者数:2200万〜2500万。捕虜としての死者数も含む。

長崎県長崎市橋口町

 長崎県長崎市橋口町20  

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