明治頃までは「柳関」と言われる小見川藩の処刑場で、人々は忌み嫌いこの場所を避けるように通っていました。 江戸時代、罪を犯した人々がここで最期を迎えた身寄りのない受刑者や、引き取り手のない遺骨を供養するために「無縁塚」を建てられたものです。
処刑された人々の姿が現れると言われ、夜に黒い人影が横切ったり、供えた花がしおれて人の首が落ちるかのように花が落ちる、石碑の周りですぐそこに誰かが居るような足音が聞こえてくる、夜間に撮影をすると無数の白い発光体が写り込む等とと言われています。
以前に柳関無縁塚の隣には法務局がありましたが、深夜の廊下で誰も居ないのに足音が聞こえてくる、事務所内でざわざわと人の声が聞こえてきてドアを開けても誰も居ないという事や、出勤すると壁土が人型に剥がれ落ちていたり、書類棚の裏に誰かが立っている気配を感じるといった事も有りました。
そして「柳関無縁塚の怨霊が心霊現象を起こしている」と囁かれるようになり、法務局は余儀なく移転してしまったと言われています。
柳関の地は、一度濡れたらなかなか乾かない。地元では昔から「処刑された人の血が染み込んでいるからだ」と囁かれており、特に有名な話が「天狗党(天狗連)」の6名がここで処刑され、若き志士たちの無念が強く残っているとされています。
昭和の初め頃にはこの辺りで「おい・・・」「帰りたい・・・」という声聞こえて来たという話が絶えなかったそうです。
柳関無縁塚の基本情報
1657年(明暦3年)1月18日から20日までに江戸の大半を焼いた「明暦の大火」の犠牲者を供養するために建てられました。明暦の大火では、江戸城天守閣を含む江戸の町の約6割が焼失し、亡くなった方は10万人を超えたと言われています。
この火災で亡くなった身元がわからない多くの遺体が、当時の隅田川付近(現在の両国・日本橋付近)に集められ、手厚く葬られました。これが後に東京都墨田区両国2丁目8−10に在る「回向院」の建立へとつながります。
明暦の大火は、年の干支から「丁酉火事(ひのととりのかじ)」、若死にした娘の愛用していた振袖を縁起が悪いと本妙寺で焼却したところ、飛火して大火事になった事から「振袖火事(ふりそでかじ)」、火元の地名から「丸山火事(まるやまかじ)」などとも呼ばれていた。
明暦の大火の火元が1か所ではなく、本郷・小石川・麹町の3か所から連続的に発生したと言われており、ひとつ目の火災が終息しようとしているところへ次の火災が発生し大火事になったと言われていま。
処刑場が出来る当時はこの場所には大きな柳の木があり、処刑の際に行列がその柳の角を曲がったことから「柳関」と呼ばれるようになったと言われています。
天狗党(天狗連)
1864年(元治元年)幕末に尊王攘夷を掲げて挙兵した水戸藩の過激派「天狗党」は、幕府軍との戦いに敗れ、各地へ敗走しました。その一部が現在の千葉県北部へと逃げ込み、小見川付近でも激しい捕縛劇や衝突がありました。これが「天狗党の乱」と言われています。
当時の人々にとって、天狗党は「国を想う志士」という側面と、各地で略奪や混乱を巻き起こす「恐ろしい集団」という両面の印象がありました。
福井県敦賀市松島町には、天狗党員353名が処刑後に埋葬された塚があり、「武田耕雲斎等墓」として国の史跡に指定されています。
「天狗党」名称の由来
水戸藩の藩政改革に登用された藤田東湖や安島帯刀ら改革派の知識人(尊王攘夷思想を持つ下級武士)を、門閥上級藩士が「学問を鼻にかける天狗のような者たち」と批判したのが始まりです。
人とは思えぬ義勇の行為をする正義の人という意味で自称し、反対派からは成上り者が天狗となったという意味で使われた。
千葉県香取市小見川3889
