南北朝時代(1336年から1392年までの時代)に戦で死んでいった武士たちの怨霊を供養するために周辺の住民によって建てられたと言われています。
泣塔が建つ土地を所有した者は貧乏になる、泣塔を見た者が後日幽霊と遭遇したり、祟りに遭う等と昔から言われ恐れられています。以前にも泣塔周辺も取り壊される予定であったが、周辺住民は古くからの祟りの言い伝えがあったため反対した。
塔の撤去作業中にたびたび怪我人が出たことや、付近の工事現場で死者5名を数える事故が起きたこと、夜中に異様な音が聞こえるなど、凶事・変事が様々に起きたことから、ついには当局も泣塔の破却を断念し、この一角だけは手を着けることなく建設予定地の脇にて旧態地形のまま保存され、周辺住民によって供養され続けることとなった。
泣塔の基本情報
2026年(令和8年)2月、丘の雑木林が市に伐採された。市役所新庁舎の建設予定地に近接する約9メートルの丘を覆っていた400本以上の樹木が全て伐採されていた。
1971年(昭和46年)9月11日、市の「指定文化財」に指定
1966年(昭和41年)12月1日には、時の工場長の発案で、泣塔の周辺に杉の苗400本が植えられた。
1949年(昭和24年)6月1日第二次世界大戦後に発足した日本国有鉄道(国鉄)に払い下げられ、車両整備工場として再整備されたが、この際も泣塔については保存の方針が引き継がれ、毎年の創立記念日には供養が行われた。
1943年(昭和18年)周辺の土地が軍に買い上げられ、横須賀海軍工廠深沢分工場が造営されることになった。
1356年(文和5年)2月20日に南北朝時代の典型的な宝篋印塔で、当時の人々が「現世の安穏」と「死後の極楽往生」を願って建てた供養塔です。鎌倉周辺で起きた戦乱、とくに1333年の洲崎合戦で亡くなった人々を弔うために建てられたと考えられています。
「泣塔」という名前の由来
かつてこの塔を近くの青蓮寺(しょうれんじ)というお寺に移したことがあったのですが、それ以来、夜な夜な「元の場所へ帰りたい……」とすすり泣く声が聞こえるようになったそうです。
あまりに不気味で悲しげなので、元の場所に戻したところ、泣き声はぴたっと止まったという不思議な話から「泣塔」と呼ばれるようになりました。 また、「無き人の塔」がなまって「泣塔」になったという説もあります。
神奈川県鎌倉市寺分11
